『白い巨塔』という作品は、不思議なドラマです。
時代が変わっても、何度もリメイクされる。しかもそのたびに、財前五郎という人物の"見え方"が変わる。
これは単なる名作だから、ではない気がしています。おそらく『白い巨塔』は、その時代ごとの「医療への不安」を映す鏡だからです。
■ 原作が描いた恐怖——「強すぎる医師」
原作が書かれた時代、社会が恐れていたのは、「お医者様」でした。大学医局。権威主義。密室性。説明不足。患者は従うしかない。
財前五郎は、圧倒的な技術を持ちながら、同時に傲慢でもあった。患者より組織を優先し、説明より権威を優先する。だから彼は、"旧時代的医師像"の象徴として描かれた。
■ 時代が進むにつれて変わった「見え方」
しかし時代が進むにつれて、視聴者の財前への見方が少しずつ変わっていきます。単なる悪人ではなく、努力家。超合理主義者。競争社会に適応した怪物。
つまり社会全体が、「権威主義は嫌だ」だけではなく、「でも、現場は綺麗事だけでは回らない」という現実を感じ始めたのだと思います。
■ もし今、財前五郎がいたら
そしてもし今、財前五郎が現代医療に存在したら、どう見られるのでしょうか。
おそらく彼は、Googleレビューで炎上するでしょう。「説明が冷たい」「態度が高圧的」「質問しづらい」——低評価が並ぶかもしれない。SNSでは切り抜かれ、拡散されるかもしれません。
しかし一方で、現代医療は逆方向の危うさも抱えているのではないか、と思うのです。昔の財前五郎は「説明しない医師」でした。しかし今の医師は逆に、"説明し続けて疲弊する"。昔は患者が医師を恐れていた。今は逆に、医師が患者やレビューを恐れている部分もある。
■ AIの登場でさらに変わる医師の立場
AIの登場によって、「知識を持っているだけ」では、医師の権威性は成立しにくくなっていく。患者さんは、論文要約を調べ、治療法を比較し、鑑別診断まで検索できるようになる。
だから、昔のような「黙ってついて来なさい」型の医療は、もう成立しない。しかしだからといって、医療が完全な"顧客主義"になれるわけでもありません。医療には命が関わる。副作用責任がある。限られた医療資源を配分しなければならない。
■ 必要なのは「対話」
だから結局、必要なのは、「お医者様」でもなく、「患者様」でもない。権威でも、迎合でもない。"説明責任を伴う対話"なのだと思います。
もし財前五郎が今の世にいたなら、その卓越した技術だけでは、生き残れないでしょう。しかし同時に、ただ優しいだけでも、今の医療は支えられない。
技術。説明。対話。境界線。そのすべてが求められる時代に、私たちは生きているのだと思います。

